この建物は本来当社の仮殿として建てられたもので、屋根替え等の時に大神様に一時お移りいただくところでした。仮殿でもある社殿は当社と同年代に建てられています。 中世の頃、離れたところにお祀りしていた八幡神社が、水害によってこの地まで流されたためにそのままお祀りするようになったと言われています。 摂社には最もご縁の深い神様をお祀りすることになっていますが、これには次のような伝承が関係しています。 第14代仲哀(ちゅうあい)天皇が熊曽(くまそ)を討つために筑紫の香椎(かしい)の宮に向かわれたとき、住吉の神の意を信ぜずにその怒りに触れて崩御されます。そのあと后である神功(じんぐう)皇后(息長帯比売命、おきながたらしひめのみこと)が、家臣建内宿禰(たけのうちのすくね)と共に住吉の神の託宣に従い、三韓征伐に勝利を収め凱旋します。その途次応神(おうじん)天皇が生まれようとしたのですが、やはり住吉の神の加護により九州に上陸してから応神天皇(品陀和気命、ほんだわけのみこと)つまり八幡の神がお生まれになりました。八幡神社は応神天皇とその皇后、そして神功皇后の三柱をお祀りしていますので、その意味で最も縁が深いということになります。 |